完全閉鎖





 その店主は、最後の客であった私に少しだけ話を聞いてくれないか、と言った。今日でこの店が閉まる事を先程知った私は、快くそれを引き受け、静かに席へ座りなおした。
「店を始めてから、もう四年ほどになります」
 と、店主は言った。長いようで短く、短いようで長い年月でした、と続いた言葉にはそれなりの重さがあり、私は先を促すように頷いた。
 この店で、五店舗目になるという。
「それは酷い」
 と私が言ったのも仕方なかろう。何せ、彼は彼一人で運営する店を五回も移転させたのだ。しかも、中華にフランス料理、イタリアン、最後は和食と、それぞれの店舗で取り扱った料理は異なるというのだから驚きである。
 それはいいのだ、と言った店主はよほど料理が好きなのか、これからは全てを作り直してみたいのだという。その店では、主に創作料理を出していた。私が食べたのも、まるで江戸時代か何かを思わせる、古く、しかし手の込んだ創作料理であった。最後の話に付き合わせる御礼にと、今は完全創作のデザートを食べている。
 店主が、口を開いた。
「始めのうちは料理なんてしたことのない素人でしたから、無我夢中でしたよ。その内慣れてくると、料理がね、上手くなっていくのが分かるんですよ、自分のことながら」
 楽しかった、と言った店主の視線は、私ではなく料理を見ている。
「けれどね、何時頃からか、お客さんの顔を見る余裕が出てきた。そうすると、気がつくことがあるんですよ」
「マナーとかですか」
「いいや、そんなことはいいんです。食べてもらえるだけで嬉しいんですから。いや、これも間違いかな。言ってしまうとね、お客さんが美味しい、って言うかどうかなんです」
「美味しいですよ、これも」
「そう、お客さん方は、皆さんそう仰るんです。移転する時なんかもね、常連さんが慰めるつもりなんでしょうな、美味しいから続けてくれって言うんです。しかし、私が聞きたかったのはそうじゃない。一口食べて、零れるように美味しいと言うか。それがね、ただ聞きたかったんです」
 熱の冷めた言葉ではない、ナマの言葉が聞きたかったのであろう。確かに、私は食事をしている間、そして後も美味しいと言わなかった。これでは、取ってつけたように言ったと店主に思われて然りである気がする。
 だが、客は美味しいと言うために店を訪れる訳ではない。己の腹を満たすためにくるのである。
「卑屈でしょう、分かっているんです」
 店主は私の気持ちを察したのか、どこか疲れた目で私を見た。
「私だってね、お客さんの美味しいっていう言葉を聞くために料理をしている訳じゃない。本当に美味しければ言うはずですから、実力がないことも分かっている。それでも本当に料理が好きだから、店なんてものをやっているんです」
「ならば、続ければいいじゃないですか」
 そう言った私に、店主は少しだけ怒ったような瞳で、お客さん、と言った。
「初心に帰る、という言葉があるでしょう。私の初心はね、創作料理を作って、こんな味付けはどうですかと、カウンター越しに訊ねる店なんです。こんな風に機械的に創作して、それをお客さんがただ食べている姿を眺めるための店じゃあないんです」
「それなら貴方の望みが叶うような店を作ればいいんだ」
「貴方、結婚はしていますか」
「今の話と何の関係があるんです」
「妻というものはね、どうもそうらしいんです。毎日、朝昼晩の御飯を作る。作る前に買い物にだって行かなければならない。掃除に洗濯だってある。けれど、夫は帰ってきてから美味いも、お疲れ様の一言もない。妻は無賃労働なのに」
「それが主婦の仕事でしょう」
「そう、私も、これが仕事です。だが、私が言いたいのは違う。たった一言、それだけで幸福を得て、疲れを癒す言葉がある、ということです」
 レジ業務なんかも然りでしょう、と言った店主に、ようやく彼が言わんとしていることが分かり、私は急に絶望的な感情を抱いた。
 高校生の頃にやっていたレジ業務のアルバイトは、それは苦痛で仕方がなかった。当たり前のように踏ん反り返る客の機嫌を損ねぬように淡々と行う業務は、確かに金銭と等価であるはずなのに理不尽でならなかったのを覚えている。しかしそれと同時に、たった一言の有難うやお世話様、という言葉で救われたのも確かだった。
 あの時から、私はコンビニのレジで礼を言うようになったのだ。それとこれと、何が違うのであろう。
「私はね、もう疲れた。それは、貴方方お客さんにではない。こういう感情を抱いている、自分になんです」
 柔らかく笑った店主はどこか清々しい面持ちでエプロンを外した。
 これから店主はどうするのであろう。気になって訊ねると、少しだけ困ったような笑みを零して、店主は秘密を打ち明けるように私に一枚の紙を手渡した。
「料理が好きな気持ちだけは、何があっても変わらないんです」
 それは、いつ取り壊されてもおかしくないような、田んぼの中に建つ一軒家の写真だった。事実、いつ何が起こってもおかしくないような家らしい。
「これからは、自分のために作っていこうと思っているんです。いつまで続けられるか分からない。お客さんだって、来たってこんな店じゃあ二度と足を運ばないでしょう。けれどね、今この店を閉めてからようやく、それでいいと思えるようになった」
 紙を私の手から抜き取り、店主はそれを大事そうに折りたたんだ。私にとってこの店は一夜限りの場所であったが、店主にとっては五年間、場所は変われど働いた店である。やはり名残惜しいのか、一度大きく息を吸って、震える声で吐いた。
「お聞き苦しい事をお話しました、申し訳ない。お時間を取らせてしまいましたね、これはサービスですから、もうお帰りいただいて結構ですよ」
 食べ終えたデザートを片付ける背に、私は何とも言えない気持ちを持ちながら、何時どのようにして店を出ようかと考えた。このまま去っても、もはや過去の自分から逃げようと決意した店主は気にしないだろうが、何か言わずにはいられなかった。
「あの、新しいお店、私も行っては駄目ですか」
 ちゃんと料理の話をできるようにしますから、と言った私に、寂しそうに振り返って店主は言った。
「話なんてしなくていい、いつでも来てください。ただ、私から貴方に場所を教える訳にはいきません」
「なぜです」
「そのように気を使わせることが、一番私のしたくなかったことだからです」
 言い切った店主は、私の背をそっと押して、店の外に出た。夏の生温い風が頬を撫でる。

本当に有難う御座いました。


 私が路地を曲がってなお続いた深く長い礼は、五年間で訪れた全ての客へ向けられたものであろう。